上宮寺について

上宮寺縁起

 当寺は承久3年(1221)の創立であり、親鸞聖人の面授の直弟(じきてい)といって親鸞聖人から直接に教えを受けた弟子の明法房によって創建されました。明法房は親鸞聖人の弟子になる前は山伏をしており、名前も播磨の公弁円(べんねん)と名乗っていました。関白藤原忠通公のひ孫として誕生し、幼くして京都の聖護院(しょうごいん)の門弟として出家し、修行のかいあって通力にすぐれ、その名を広く世間に認められるようになりました。常陸の国、金砂の城主佐竹末賢(すえかた)公はそのうわさを聞いてその徳を慕い是非この国に招いて除災招福の利益を得たいと思い、久慈西の郡塔之尾(こおりとうのお)楢原谷(ならはらたに)、現在の常陸大宮市東野楢原に護摩堂を立てて弁円を招きました。そして弁円は国中の修験の大先達、指導者として大変な力を持つことになったのです。ちょうどその頃、親鸞聖人が越後の国、今の新潟県から常陸の国、この茨城県にお越しになり、稲田(笠間市稲田)というところに草庵を結び、お念仏のみ教えをその土地に縁ある人々に、優しく丁寧にお説きになられました。天災地変で苦しめられている人々や生きる希望を失いかけている人々は、いちるの望みを託して聖人のみ教えに耳を傾けました。すると乾ける大地に水がしみ込むように人々の心にお念仏のみ教えが入っていき、瞬く間にお念仏が広まり、聖人のもとに多勢の人が集まるようになりました。そのことをねたんだのが山伏弁円でした。さまざまなことをして念仏が広まるのを阻止しようとしました。板敷山に護摩壇を築き、親鸞聖人を祈り殺そうとしたり、待ち伏せをして聖人の命をねらったこともあります。しかし、そのすべての企みが失敗に終わり、最後の手段として刀と弓を持って聖人のお住いの稲田の草庵に出向いていくのです。自分を殺しに来た弁円に対して、親鸞聖人は慈愛のまなざしをもって暖かく出迎えたのです。その姿に接し弁円は圧倒されてしまい、聖人を殺害しようという心がなくなってしまいました。そして、自分が今まで聖人に対して行ってきたことを正直に告白したのです。聖人はそのことに対して一言も責めることなく黙ってうなずいて聞いてくださり、最後に一言「弁円さん、あなたもさぞ辛かったことでしょう」と言われました。弁円はこの一言でこの人は誠の人であると感得して、この人にすべてを任せてついていこうと決心したのでした。弁円はただちに刀や弓を捨て、山伏の印である頭巾(ときん)を取り、大先達の象徴である柿色の衣を脱ぎ捨てて、弟子として、念仏者の一員に加えていただくことになりました。そのときに賜った名前が明法房(みょうほうぼう)であります。以来、明法房は聖人に付き従ってお念仏のみ教えを学び、見事な念仏生活を送るようになりました。明法房の歌に

 山も山 道も昔とかはらねど かわりはてたる我心かな

 とあります。この歌のこころはお念仏が広がるのをねたんで、聖人を待ち伏せし、護摩をたいた山も、また聖人を殺しにいくために走った道も以前とは全く変わらないけれど、こちらの心が変わると眺める景色まで違って見えるという意味です。仏教ではこのことを回心(えしん)といいます。
 また、上宮寺には明法房の直筆で次のような歌も残っています。

 (あだ)とならし弓箭(ゆみや)も今はひきかへて にしにゐるさの山の端(は)の月

 人をうらむ心や人を殺す道具の弓矢も、聖人に出会い念仏申す身になってみれば、その必要もなくなってしまいました。ふと気がつくと、この世の闇を照らす月の光が静かに西の山にかかって輝いていました。わが身を照らす光に出会い、うらみ心がお念仏を申す身になっていることを歌った歌です。
 
 弁円の真似をする人は多けれど 明法房になる人ぞなし

 人をねたんだり、憎んだり、殺そうと思う人は鎌倉時代の山伏弁円のまねであり、現在もそうした心で生きている人はたくさんいると思います。しかし、そういうおのれの正体に気づき、阿弥如来の尊前にぬかずき、お念仏をとなえる明法房のような人は少ないという歌です。 明法房は建長3年(1251)に72歳で往生の素懐を遂げ、楢原谷に葬られ、そこに一基の塔が建てられました。明法房の開いた道場は「上宮寺」と名を改め、天正5年(1557)に那珂市の額田に、天正11年(1583)に那珂市本米崎の現在地に寺基を定めております。それから幾たびかの星霜を経て法灯は連綿と続き、現在31世の住職に至っております。以上、寺跡の由来を記させていただきました。
                      楢原山正法院上宮寺 31世住職 鷲元 明誠

所蔵文化財

 当寺所蔵の「紙本着色聖徳太子絵伝」は、国指定の重要文化財に指定されています。 
 絵伝の寸法は、縦37.8cm、長さ1705.2cmです。
 この絵伝は、巻首の詞書1段と絵14段からなり、絵は聖徳太子の一代記を表しているが、詞書に「肝要をぬき画図にあらわして」とみえることから、入胎・誕生から上宮王家滅亡に至る18の重要な事跡を選んで一巻としています。
 絵の作風は土佐派の正系を伝え、大和絵の伝統を示しています。柔らかな描線と丹・朱・群青・緑青など原色を使った明るい彩色で、類型化した部分もありますが、全体的には温雅な画風をみせています。
 寺伝によれば、この絵伝は、上宮寺13世の住職が石山合戦の時の功により、現在瓜連の常福寺に所蔵されている拾遺古徳伝(法然上人の行状を説いたもの)とともに、本願寺11世顕如上人から賜ったものと伝えられています。拾遺徳伝は、上宮寺から水戸徳川家初代藩主徳川頼房に献上され、2代藩主徳川光圀によって常福寺に寄進されました。
 また、聖徳太子絵伝は、近年の修理の際、旧軸付けの一部に後世のものながら墨書が発見され、それには詞書は世尊寺定成卿、画は土佐法眼光信によること、裏書に「元享元年3月17日願主釈正空」と書かれていたことなどが記されており、これによりこの絵伝の制作は元享元年(1321)と推定されます。
 鎌倉時代後半に盛んに行われた太子絵伝の絵解きの一本として注目すべきものであります。